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No.930:長岡牧野家

NHKの大河ドラマ「真田丸」が久々に好調である。生き残りをかけた駆け引きは、いつの時代
も魅力に満ちている▼ドラマの主人公真田父子は上田城に拠って徳川軍主力の西進を食い
止める。総指揮官の家康三男秀忠は、この城攻めに手こずって、とうとう関ヶ原の合戦(160
0)に間に合わなかった。男を下げたのである。後に2代将軍になったとはいえ、関ヶ原で奮戦
した福島正則などの外様大名にも、多分引け目を感じていただろう▼とはいえ、勇名を馳せた
者もいた。その1人が長岡藩の初代藩主になる牧野忠成である(1581〜1654)。当時19
歳。血気にはやる忠成は、手ぬるいとみたのであろうか。勇みすぎて軍令を犯してしまう。当然
厳しい叱責を受ける。当事者を斬首せよとの叱責である▼このとき忠成はどうしたか。「常在
戦場」を家訓に持つ牧野家は豪胆だった。「勇士を誅(ちゅう)しては、粉骨忠節を尽くすものが
なくなる」とし、「家来は主君のために命を捨てるが自分は家来のために命を捨てる」と喝破。
出奔してしまう。お殿様の家出はさぞかし大事件だっただろう▼それでもその豪胆さを愛でた
家康は、大阪城攻めを前に帰参を許し、後、福島正則改易(領地召し上げ)の正使に忠成を
起用する。関ヶ原で功績随一の正則は、当時広島49万8000石の大大名だった。適役は忠成
しかいない。こうして忠成は徳川家譜代の大名としての重みを増す。幕府の老中職を歴任する
礎も作った▼さ来年は忠成の長岡開府から400年。お祝いの時期である。(ふうちそう)

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