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悠久録(過去の悠久録はこちら)
No.804:秋の朝

(10月7日分)

10月に入り秋の気配が強い。稲刈りがすっかり終わっている。枝豆も借り入れがほぼ終わっ
た。紅葉が始まるとともに、季節は晩秋に向かって駆け足である。もう少しすれば、消雪パイプ
の点検が市内のあちこちで行われるだろう。10月は秋たけなわであるが、同時に季節の変わ
り目に向かう時でもある▼「秋」の言葉には様々なイメージがある。「春」や「夏」と異なる何か
があるのだろうか。俳句で「秋の朝」と言えば思い浮かぶのは爽やかな印象であろうか。どちら
かと言えば単刀直入な朝の光景であり、しかも初秋のまだ浅い秋をイメージしてしまう。「桑の
葉に秋の朝雲定まらず」(大野林火)▼俳人飯田蛇笏は「一瞬、呼吸を止めたその呼吸を、ほ
っと漏らした感じが秋の朝」と言っている。蛇笏は難しく表現したが、言わんとするところは、こ
れから訪れるであろう晩秋や初冬への緊張感と、眼前の爽やかな朝がもたらす安堵感の交差
を指すのだろ。緊張と安堵の狭間に「秋の朝」があるとすれば、日本語はまことに繊細である。
「足もとはもうまっくらや秋の暮」(草間時彦)▼これに対して「秋の暮」は複雑である。『新古今
集』の「三夕」の歌は、秋の夕暮れの光景、それも晩秋の光景をうたって、なにやら寂しい。「秋
の暮」の言葉には、人生の哀しみを示し、来たるべき冬の厳しさを予見させる▼10月4日は
「米百俵まつり」だった。勇壮な時代絵巻が青空の下で繰り広げられた。いよいよ秋である。冬
到来の前にひとときの爽やかさを秋に求めたいものである。(とけいそう)

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